
日本語を褒めていただく機会があって、喜びがじんわりと広がっている。
優しい人だなあ、と思う。
母国語だと言うのに、日本語は私にはずっと捉え所のない言語であり続けていて、日本語だけだと呼吸困難に陥るのではないかと思い、ドイツ語の獲得に至る。
この二つは全く正反対の言語だからこそ、私にはちょうど良かった。
写真は、モーツァルトが眠っている墓地。
ロックダウンが終わる月曜日が待ち遠しい。
活気に触れたい。
今日も良い1日でした。

Neusiedler Seeの近く。
連絡を仲介したらば、もう彼に連絡することはないよ、と。
どんな決定的なことがあったのかは知らないし、聞かない。
名前も呼ばず、誰々の孫と表現していた。
ここの関係はもう終わりだろうと思う。
彼は誤解しているんだ、とその人は言っていたけれど、誤解ではないのよね、本当に。
誰かの夢や希望を叶えることができるような、神社みたいな人というのはいる。
そういう人のところには、まさに神社のように色々な人が来ては、去ってゆく。
目を瞑ってあげたり、騙されてあげたり、そんなことが繰り返されていたのに、そのことに気づかなかったその人が、どんどん図に乗って、その神社みたいな人を自分の都合の良いように利用して、雑に扱ったから、縁を切られたのでしょう。
Dorotheumから家具のオークションのお知らせが届く。
ビーダーマイヤー時代の女性用のとても素敵な机が出ている。
ディテールがとても良い。
落としてみるかな。
穏やかな良い1日に。

とても情に流されやすくて、人助けばかりしては利用されて、何も言わずに去る人がいる。
その人からメールの返事がない、とある人から私に連絡があった。
避けられるようになった方の人たちは、決まって、誤解なんだよ、と言う。
誤解しているよ、と。
これはもう100%の確率と言って良いのではないかな。
自分の非を改める言葉もなく、相手が誤解していると言う時点で、どこまでも他責にする人たちだなあ、と思う。
つまりは、そういうところ。
誤解ではないんだよ、あなたに誠実さがないことが透けて見えてしまっているんだよ、と思う。
私はその人ほどお人好しではないので、中には、私がその人を自分たちから離れるように仕向けたのではないかと考える人たちもいる。
私がいなければ、ずっとその人を利用できたのに、よくも邪魔してくれたな、と言うことかな、と思いながら、聞いている。
そういう人たちは、自分に都合の良いように人を動かすという構図で何事も理解するのだな、と思う。
人は、見たいように世界を見て、信じたいように物事を信じるものなのだと思う。
メガネのようなものが自分と世界や他者の間にあるのだとしたら、美しく見えて、良きことを信じられるメガネを調達したら良いのだと思うのだけれども、このメガネは経験ということになるのかな。
だとしたら、経験を選べますように。
選べない、どうしようもない境遇としての経験もあるけれども、
大人になっても、弱くて、可愛い、素敵なところのある自分というものに対する愛着を失うことがありませんように。
それが、世の中との断絶を生むような精神世界に傾倒しすぎることなく成立すると良いように思う。
最近の感染症のことがあるからか、人の心の状態にも「感染る」ということがあるということをイメージしやすくなった。
心の健康という表現は、適切なのだろう。
これからは、より一層、心の健康や集合意識というものに関心が集まるのだろう。
あっという間に今日も金曜日。
穏やかな良い1日に。
























