ありがとうございました
天皇皇后両陛下に心からの感謝を。 ありがとうございました。
May
大きな仕事に取り掛かること。 そして、イタリアへの旅。 ということで5月半ばごろまでブログをお休みします。 その間に、メディアの方でも発表していただくものがあると思うので、その時はこちらで告知します。
updating
あれこれ新調する日々。 持ち物が増えることがあまり好きでないことと、 嗜好が変わらないから、 今持っているものに不満はないのだけれども、 なんだかちょっと全体的にくたびれている感じがする。 好きなものが見つからないから、持たずに済ませている道具のことで、不便が暮らしの一部となってしまっている感じがする。 案外、こんなことで停滞して、日々がいびつになるのだな。 と思って、街に出る。 ポイポイポイと思いつきでお買い物をする。 すると、これで良いと思っていた自分や暮らしのかたちが古くなっていたことに気づく。 本当は変えたかったんだということに気づく。 帰宅して、古いものを処分して、新しいものを収める。 良いもの、好きなものだけを少し。 自由とは、自分に正直に生きられること。


shortcake
ランチに、またショートケーキを作りました。 オーストリアのケーキ屋さんではショートケーキは見たことがありません。 なので、自分で作るのだけれども、ショートと言うだけあって、本当にあっという間に作れて、焼いている時間を含めても30分ぐらい。 クリームは今日はちょっとホイップしすぎました。 苺がないときはキウイやメロンでも美味しい。 ***** このところ、訃報が続いています。 刹那的に生きるのでも、長期的な計画を立てて、いつかの何かのために今日を生きるのでもなく、 自己の内に平和を宿して、自分の真実を日々生きられるといい。


Yo Oizumi
飛行機で「こんな夜更けにバナナかよ」という映画を観て、大泉洋さんの素晴らしさに出会う。 昨日の夜は、映画「恋は雨上がりのように」をオンラインで観たり、大泉さんが歌っている動画を見つけて、聴いたりする。 どちらの映画も出演されている皆さんの声が良くて、うっとり。 今夜は「探偵はBARにいる」を観る予定。


shaping tomorrow with the true oneself
天気が良かったので夕方から散歩。 ひとがとても多い。 ひとが写らないように写真を撮るのは大変なので空をば。 同じこととか、必ず当たることとか、有名なものとか、 お金が用意できれば必ず実現できるようなこととか、そういうことにはもう興味が持てないのだけれども、みんなもそうなのではないのかな。 新しいアイディアが具現化されたものを見たい。 オリジナリティ、ユニークネスが際立ったもの。 その人が、その人であるということが一番尊い。


completed
ある方へのお礼として、喜んでいただきたいものとして発表させていただきたいもの。 その準備がほぼ完了しました。 今日には送れるかな。 癖のある文章だと、たくさん読まないとその癖の特徴を掴みきれないのだけれども、 なんとかなった。 19世紀の副文を多用する人の文章でした。 それと同時にさらに本のお仕事のご依頼を頂きました。 翻訳。 史料集ですね。 これはこれでまたドイツ語が難解なので、やる意味はあるなあ。


the next book
最終的にこのデザインに決まったのですが、私の名前が出ていません。 ということで、どこかに私の名前を入れてもらいましょう。。。 アマゾンでは8月となっていますが、もちろんそれより前に出版します。 博士論文は陰陽道と道教について執筆したのですが、訳あって、近現代史の研究に従事していたらば、 最近になって、陰陽道関係での論文の寄稿のご依頼を頂いたりして、不思議です。 この分野でドイツ語でアウトプットできる人がいないからということなのかもしれないけれど。 中国語と日本語の典籍にあたって、ドイツ語でアウトプットするというのは、なかなか大変なのだと思います。 しかし、しかし。 今週中に別の大きなものを動かすので、皆さんのところにも届くと良いなあ、と思いつつ。 花粉症がひどくて、花粉症ではないのではないかしらと思うほどですが、 集中していると治るので、不思議なものですよね。 集中万歳。
Wissen
学校教育を振り返ると、テストとか、正解のある世界の勉強がほとんどだったなあ、と思うのです。 だから、あまり生きることの助けにはならなかったなあ、と。 知らないとお手上げというマインドセットでは、知らないことの方が多いこの世界では生きていけません。 大人になってから、世界だとか人生を説明する知の体系に従属することで得られる安心感に身を委ねる人が多いのは、このマインドセットゆえのことではないかと思います。 知識は大事なのだけれど、知っているよりも大事なのは考えることだと確信している今は、 この世界には正解はありません、あなたはどう考えますか、という授業があってもよかったなと思います。 道徳とは別の、もっと単純に考えるだけの授業。 例えば、二者択一の問題があって、どちらを選んでも良いけれど、自分が選んだ理由を述べましょう、というような授業。 ディベートと違って、誰かを納得させる必要もなく、勝ち負けもなし。 成績もつかない、ただ単位を取得するだけの授業。 これで鍛えられる力が、生きていく上では大事なのではないかと思います。 というのは、人生の岐路というも
negative capability
専門性にある正解への確信を疑問にかける。 専門性とは、バイアスであることも多い。 特定の領域や見識における正解が、他の領域や見識においては正解ではないこともあるし、 素人である個人の見解より優れているとは限らない。 正しい解があると思っていて、それを知っていると自負する人は、考えるということができていないかもしれない。 特定の枠組みから思考が自立できていないから。 何らかの解を出す特定の回路が出来上がってしまっていて、そこに影響を受けないような考え方ができないから。 正しい解を持っていると自負している人には、意見とアドバイスの違いがわからないかもしれない。 意見とは、相手が自分で考えることを尊重した上での抽象的なもので、 アドバイスは、相手の行動を規定する具体的なもの。 だから、イノベーションを起こすべき場や教育、人の相談に乗るようなことに従事している人に一番大事なことは、素人性を残しておくことなのだと思う。 自分の立ち位置への客観性。 それがなければ、一方的に自分の解を正しいと信じて押し付けていることへの気づきもないし、別の立ち位置の人との対話