Ausbildung
イギリスの友人のこと。
彼女は、心理療法学の修士論文を提出できなくて、学位が取れなかった。
セオリーについて論じ始めたら、心理療法学が学問としていかに弱いか、という結論に達してしまい、制限目一杯のページ数・文字数を使って、それについて完璧に論じてしまった。
論文、書けなかった、提出できなかった、でも奈奈には読んでほしい、というメールが届いて、送られてきた論文に目を通した。
何年も学費も生活費も自分で捻出していたから、この時の疲弊は想像を絶するものがあって、私の頭の上にも石が落ちてきたようだった。
印象としては、見事に叩き割ったという感じだった。
一般のこのレベルの学生の論文が食べられるほどに希釈しためんつゆなら、彼女の論文は、一口口にしたら致死量レベルに濃い、もはやめんつゆではない何か、ということになると思う。
私の感想は、書けなかったのではなくて、彼女は、この学問に対する答えを出した、というものだった。
きっと、先生方は自分たちへのものすごい挑戦状だと受け取って、突き返したのだろう。
否定されたと感じたなら、まだ真摯だと思う。
大抵は、自分の存在が危うくなるものは、権威でもなんでも使って潰してしまう。
授業で、彼女が素朴な疑問として呈した質問が、ある教授のセオリーをど真ん中から崩すもので、私は、ハッとしたけれども、その教授は、彼女の自閉症の特徴に寛容な理解を示すかのようなポーズを取って、殊更に親切な調子で、でも、ちょっと貶めるような具合で彼女の知らないような周辺の知識を披露して、上手を取った。
彼女が、大勢の人の前で意見をするということにどれだけの勇気を必要とするかを知った上で、関係のない知識を披露してやり込めるという方法がよくないな、と思い、その時は、私の方でその場を引き取って、彼女の代わりに彼女の言いたかったことの論点を整理して、温和な質問の仕方に直して、その教授に再度答えてもらうようにお願いしたということがあった。
こういうことの積み重ねで、規格外の力を持つ人が萎縮したり、自信を失うということは、本当によくあるのだと思う。
埋もれていってしまうもの。
修士論文については、学位はもらえなかったけれども、この学問に対する答えは出せたよね、きっと、先生たちには一生かけても出せないような答えを出したのだから、立派な卒業だよ、もうこれ以上、この学問で追求したいことはないでしょう、完成だね、読ませてくれてありがとう、とメールした。
どれだけ凹んでいるか、想像もつかなかったけれども、それから未来について話し合った。
そして、その数ヶ月後に次の進路を決定して、それから数年して、今がある。
私はどうも学校という場所が好きではないのだな。
私の場合は、望まれている答えというものがわかる器用さがあるから、試験で良い成績を取れるということがあって、それほど苦労はしてこなかった。
でも、子供の頃から、学校での評価というものには疑問があった。
自分の知りたいこと、疑問が先にあって、それに答えを見つけるために知識を求め、思考するという全体が学ぶということで、正解を出せる、何かを知っている、ということを披露して知力が決められるというのは、とても変だ、という感じ。
でも、そのシステムに矯正されてしまうと、正解がないことについても正解があるように考える、不確定なことに弱い大人が出来上がる。
おまけに、学校の勉強ができるということは、本来の学力が意味するところとは違うのだけれども、基本的には、その結果で人生の大事なことが決まってゆく。
成績をつけないとどうしようもないのかもしれないけれど、教育における評価は貨幣の問題と似ているような気がする。
近代を脱していないのでしょう、私たちは。
単純に考えても、マジョリティであるということにはあまり価値はない。
苛烈な競争に勝っても、差異はわずかばかりで、割に合わない投資をするような感じ。
マイノリティであることに誇りを持てるような世界観が必要なのだと思う。
それを子供の頃に確立できたら良いと思うのだけれども、課題としては、結局のところは自己肯定感を育てるということに収束するのかもしれない。
多様性を認めるというのは、自分が大好き、というところがスタートだよ。
教育の場が、自分を好きになれる場所だと良いな、と思うばかり。
オーストリアは精神的な土壌としてはちょっと不思議な国で、シュタイナー、ヴィトゲンシュタイン、フロイト、アドラー、フランクルなどを輩出している。
先生はフランクルには会ったことがあるらしい。
ヴィトゲンシュタインの妹のヘルミーネが日本の昔話をモチーフに創作した作品も所有している。
先生もちょっと不思議なのだな。
教育のことは、今の大きなプロジェクトが実現したら、考えたい。
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