23. Juli 2021
- Nana Miyata
- 2021年7月23日
- 読了時間: 4分
更新日:2021年7月24日
実力よりも権力。
才能よりも肩書き。
人命よりもお金。
これが、今の日本なのだろう。
日本は江戸時代の頃からあまり変わっていないような気がする。
鎖国的精神性みたいなもの。
村のような感じ。
その閉鎖された社会の中の利権にどう関係していくか、どんな肩書きを名乗って、どの階層に位置していくかが人生なのかな。
士農工商。
大きな一つの会社のようでもある。
日本の人が、日本に生まれて、日本に暮らしていく主な理由は言葉の問題にあると思う。
日本人に生まれて、バイリンガルで育つのでなければ、外国で外国語で現地の人と同じ土俵に立って仕事をして、生きていくというのは本当に大変なことだと私自身が身をもって経験している。
でも、日本に暮らしていても、実力や才能は輸出できる。
2016年のリオのオリンピックで紹介されたマリオの映像は、とてもクリエイティブだな、と思った。
日本の姿を新しく見せれる人たちが確かにいる。
あの映像を作った人たちがオリンピックの開会式を作るべきだったと思う。
何とも言えない気持ち。
日本は、いつだって現場の人がなんとかしているんだよね。
そろそろ誰かの責任感の強さや誠意や我慢の上に成り立っている今の社会構造をどうにかしないといけないのではないかな。
誰かの実力や才能や誠意、善意を立場の上の人間が搾取するという構図を即刻壊した方が良いだろう。
ひとの価値は権力でも肩書きでもお金でもない。
命そのもの。
どんな人も、たとえ自分が嫌いな人であっても、誰かにとっては大事な人。
その部分で、相手の存在を対等に大事なものとして認めるということが人権意識の始まり。
今回、開会式直前に降板した二人は、その行為に違いはあれど、人の尊厳を冒涜したというところでは同じだった。
絶対に超えてはならないラインを超えても大丈夫だと思ってしまっていたところが、今の日本の社会の閉鎖性と人を幸せにはしない社会構造を示してしまっていたように思う。
これからの世界は横の意識で生きていく世界。
相手を認める、相手の存在に敬意を払うということが、年齢、国籍、ジェンダー、職業などを超えてできることが、次の世界を生きていく上で必要とされる資質。
バッハ氏も大概というか、典型的なドイツの自我の強いエリート層の振る舞いという気がする。
日本を格下に見ているのではないかな。
日本は、IOCに対して、喧嘩せずに、失礼にならずに、でも阿らずに、毅然と対応できれば良かったのだろうな、と思う。
自分の命、存在を軽視するのをやめましょう。
卑屈になります。
卑屈になれば、自分より弱く見えたり、下に見える人を探して、自分がされて嫌だったことをするような人間になる。
そうすると、自分で自分の尊厳を二重に傷つけることになる。
自分が嫌いだったはずの人間に似るというのは、屈するということ。
その自分の弱さから逃げるために、人の足元を見るような人間になっては、人間なんて、こんなものだと軽視するようになる。
本当は、人間がこんなものだったのではなくて、自分という人間がこんなものだったということに気付いていながら、世の中や人の最低にピントを合わせるようになってしまえば、あとはいくらでも落ちていくだけ。
もしも、悪意を持って自分を傷つける人間がいたら、接点を無くして、仕返しましょう。
その仕返しとは、幸せに生きること。
人は自分の理想に向かって自分をよく生きることができれば、自尊感情が安定する。
自尊感情が安定すれば、人と無闇に競争して自分の何かを証明する必要もないし、誰かに過剰に依存することもなく、安定した人間関係を築けるようになる。
自分の価値を外に求めず、自分と仲良く生きていけますように。
誰かに搾取されることなく、犠牲を払うこともなく、自分の人生を大切に生きていけますように。
命に付随する尊厳に敬意を払うということ。
オリンピック、パラリンピックが選手にとって良い機会となること、
現場の人の安全が守られることを祈るばかり。
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