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16. August 2020


早朝に大雨。

清々しい。

展示の監修。

資料を翻刻・翻訳をする。

これは適切な時期が来たら、新聞で宣伝できるのではないかな、と思う。

ご依頼をいただいて、こちらの日本企業のグループで購読されている紀要に寄稿したのだけれども、

考えてみたら、このことについてはドイツ語でまだ発表していない。

これは、どうしようかな。

生き方の延長としての働き方について考えつつ。

純粋に仕事をするのがいいな、と思っている。

その周りを包む色々な豊かさに恵まれていることに感謝しているけれども、人間には疲れてしまうのよね。

重いエネルギーが苦手。

私には、おそらく、それがない。

一昨年、自宅で倒れて背骨を折った時も、何の感慨もなかった。

執着というものがない。

走馬灯とかいうけれども、後悔も何もなかった。

倒れた原因となった症状のために、あ、これは死んでしまうのかもしれないな、と思い、素敵な家の扉が破壊されてしまってはかわいそうだと思い、鍵を開けて、リビングの床で倒れていたら事件性が高くて面倒かも、と思い、寝室に移動して、母と翌日会う約束をしていた先生に状況を説明するメールを送って、ベッドに横になり目を閉じた。

人に見られて困るものってあったかな、遺品の整理は大変だろうな、両親のことだから捨てられないだろうし。

自分でもっと物を減らしておくべきだった、とか思いながら。

夜中に目が覚めて、あら、生きているわ、と思いながら、救急車のサイレンが聞こえたので、救急車を呼べば良いのか、と考えるも、まあ、いいかな、と思い直す。

早朝に先生が駆けつけてくれた時には、もうベッドから起きれないぐらいには背骨の周りに痛みが広がっていて(皮を一枚接いだ感じの焼けるような痛さ)、それでもなんとか入院の準備をして、タクシーで大学病院の救急外来に行ったら、すぐに色々な検査をされて、入院が決まった。

入院している間は、少し痴呆が進んでしまったおばあさんたちの不思議な話を聞きながら、ずっと横になっていた。

折れたところに何かを注入する手術を勧められたのだけれども、それは後遺症が出るイメージが広がったので、断った。

手術を断ったので、自然治癒を待つことになり、その間、動いてはいけなかったので、日本から母がやってきて、身の回りのことをしてくれた。

それは、それで楽しくて。

脊髄も損傷することなく、何の後遺症も残らず、お医者さんも笑っていたほど、そのままにまっすぐ骨がくっつき、再び何の不自由もない生活を送れている。

でも、そういう時でも、お願いごとをしてくる人というのは何人もいて、そのことに対して初めて侮蔑の気持ちを覚えたのだった。

働くことについては、どうしても人間としての感覚が希薄になるのだけれども、この時ばかりは人間のどうしようもないところに落胆した。

責任感とも違う感覚。

こうすれば、この状況が生まれるということが見えるから、あらゆることの調整と足りないことを補填して、そして、自分の能力を使ってしまうのだけれども、それを遂行する上で、自分の快・不快だとか体力の限界とか責任の範囲などを度外視しまうところがある。

良い人であるというのとも違う。

これは、何だかわからない。

仕事で自己実現(したい)という希望はない。

承認欲求が全くないといえば嘘になるだろうけれども、仕事そのものに満足してしまうところがあるから、人の評価への関心が薄い。

多くの人に知ってもらえたら嬉しいな、というところで宣伝は頑張る。

けれど、終わってしまうと、過去のものとなってしまい、驚くほど関心がなくなる。

誰かと一緒にした仕事の成果だけは別。

その誰かのことは正しく評価されてほしいという気持ちがいつもどこかにある。

今、確かにわかっていることは、生き方の延長に働き方を見つけたいということ。

私にとって、純粋な仕事は遊び。

そして、それが本来、一番に貢献できることなのでしょう。

荒れるに任せて良いこともある。

成功させてあげなくても良いこともあるのかも。

助けてあげなくても良いこともあるのかも。

むしろ、その人たちがその人たちだけでどうにもできないことなら、彼らの経験としてどうにもできなかったということが正しい結末ということもある。

生き方の延長としての働き方にシフトすること。

それは、人との接点を減らして、人の問題を直接解決してあげるようなことをやめて、仕事によって、間接的に誰かの何かの役に立つことをしていくということ。

そのほうが実際には会うことがないような人の何かの力になれることもあるかもしれないし、良いのかもしれない。

私の身体、心、能力、時間は、私のもの。

生きている間は、その私がどうしたいかという気持ちに即して、選んで良い。

人間なのに、人間であるということがよくわかっていないことに自分で呆れるのだけれども、この歳になってようやく理解する。

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