12. Juli 2020 II
良い空。
正直なところ、最近、本の仕事が頑張れなかったのだけれども、また頑張るかな。
普段はもうずっとドイツ語で仕事をしているけれども、母国語ではないのよね。
ドイツ語への翻訳はやっぱりちょっと失敗することがあって、どーんとスランプに陥ることがある。
間違いではないけれども、慣習として、そちらの言い方をするのね、とか。
この分野ではイタリア語の方を使うんだ、とか。
調べが足りないと言われればそれまでなのだけれども。
自分の判断に自信が持てなくなるとコミュニケーションにも揺れが生じる。
できるようになればなるほど間違えないと思われているような気がするので、正しいニュアンスで伝えられているかどうか不安になってみたり。
バイリンガル、トリリンガルの人が羨ましくなるけれども、彼らは子供の頃に相当努力をしてきたと思うから、そのことを尊敬する。
ブログを日本語で書くのは、深呼吸のようなもの。
とはいえ、日本語も自分の言葉なのか疑わしいけれども。
私にとってドイツ語は理解を深めるための言葉。
日本語は茫洋としていて、連想ゲームには向いているけれども、思考をまとめるには苦手な言葉。
英語は、特に思い入れがないけれども、記号のように使える言葉。
そのために、私は自分を表現する言葉を持たない。
仕事なら、いくらでも語彙も格調も上げていけるし、翻訳なら文体も変えることができるけれども、どれが私の文体かと言うことはわからない。
そのために音楽や絵画を必要としているのだと思う。
自分では音や色で表現できないけれども、聴いたり、見たりすると自分が包容されているように思える作品がある。
キーツのネガティブ・ケイパビリティという概念がある。
ドイツ語も英語も日本語も自分の言葉でなくなった時の、気持ちとしては最果ての地のような場所で佇む時の感覚が意外と好き。
人生と同じようなものだと思う。
答えはない。
句点を打たないままに、考え続ける、問い続ける。
人生が終わるまで、長い、長い、長い、文章を書き続けることもあるかもしれない。
基本的にせっかちで短気で自分の考えというものは持っていたいのだけれども、変わることには開いていたいと思う。
さてさて。
スランプという名の深い海を泳いでいたけれども、
そろそろ気持ちを一新して、明日からまた茫漠とした世界を言葉で切り刻むマインドに戻しましょう。
今日も良い一日でした。