25. April 2020
ワクチンが開発されたら、以前の人との距離感を基礎にした社会活動に戻れるのかな、ということを考える。
一番気になっているのは、室内での大規模興行が何を条件に再開されるのかということ。
音楽、舞台などの芸術は今後どのように行われることになるのだろう。
今回のウイルスの怖いところは、無自覚感染者が圧倒的に多いにも関わらず、一部の人たちが短期間で死に至るところにあるように思う。
この全体の構造を当事者として捉えることができるか、できないかで行動が変わる。
当事者として考えられる物事の範囲は、人によって異なる。
政府の介入のあり方や施策を見ると、ヨーロッパは、当事者として考えることのできない人たちの行動を牽制したと考えられる。
外出制限を発令することで、医療体制の崩壊を防ぎ、国民全体を守る。
けれども、主に経済活動において国民の自由の権利に抵触することになるから補償をする。
とりわけメルケルさんの演説では、この権利に抵触することに極めて自覚的な発言が見られた。
ウィーンでは昨日、マスク着用の義務に対して反対するデモがあった。
要は、施策の「強行」への反発なのだけれど、彼らのような層も取り込まなければ、感染が広がっていた可能性はあるし、今後も広がる可能性は高い。
民主主義における自由と平等の問題だけれど、このことも今後課題となるのだろう。
日本は、自粛を要請することで、国民の自由の権利と補償の範囲のバランスを取っているとも考えられる。
政府の施策が不透明であるところに大きな問題があるけれど、手続きとしては一番民主的であるようにも思う。
それだけにこのような非常事態においても時間がかかりすぎているけれど、手続きが丁寧ということ自体は本当は良いことで、今の政府にあっては、国民はこの手続きの丁寧さによって守られている側面もあるように思う。
世界は変わるのだろう。
例えば、リモートワークが進めば、ある分野においては所属に意味がなくなって、みんなフリーランスになるのかもしれない。
企業や大学は運営組織のみ母体として残るけれども、そこに参加するメンバーは世界中から集めることが可能になる。
個人プレイヤーとして働く覚悟を決めておいた方が良いのかもしれない。
どこに住んでいても仕事ができるなら、好きな土地を選べば良い。
話す、書くことに支障がないレベルで言語ができれば、原則、母国を出ても、世界のどこでも生きてゆける。
国は、良い政治を行うことで、優秀な人が集まる場所となる。
それだけ人の動きが流動的になれば、国の運営においても世界に表明できるような良き理念とビジョンが必要とされる。
古くはアメリカ、ドイツは戦後、この路線を歩んできたのではないかな。
そして、これからは年齢やジェンダー、出身国に関わらず、才能のある人を積極的に登用する国が頭角を表すだろう。
とりわけ若い人には、この変化は希望のあるものだと思う。
いつかのために実力をつけましょう。
決まった条件下でのみ守られる何かではなく、普遍的に通用する力を。
そして、強い個人となりましょう。
自分の哲学や良心に従い、決断できるように。
ということで、私は今日と明日は大掃除。
今日も穏やかな良い一日を。