floating in the air
- Nana Miyata
- 2019年1月17日
- 読了時間: 3分

夜ごはんの準備をしようと台所に立つ時、
自分のごはんを自分で作るのにもかかわらず、どうも母親のような気持ちになる。
その役を演じられると、美味しいごはんができるのよね。
落ち着いた気持ちになるし、丁寧にごはんを作ることができる。
いろんな役割の総合芸術が自分。
不快な気持ちになることが起きるときは、
そのうちのやめたい役割をやめればいいだけ。
それができないぐらいに、今の環境全般に永続的に不満が出てくるときは、自己像が変わったとき。
それまでの自分の役割や立ち位置に不満が爆発して、
人間関係を整理して、仕事の仕方を変えるような上昇志向につき動かされる。
これまでのぼんやりした我慢が復讐に変わったり、
曖昧さがなくなり、何もかもを迷わず切っていくこと、仕分けることをよしとする、
確固とした自分というものが屹立する。
soldier誕生という感じ。
今は、多くの人がこの変化を経験しているのだろう。
大きな流れにおいて、闘いの時期なのだろう。
闘い方は様々だけれど、旗色を示すということがどんどん増えている。
自分に直接関係のないことにも、聞かれていないことにも意見して、
頼まれていないことにも助言して、もちろんそれへの反論もあるから、
ありとあらゆる声で溢れかえっている。
その中で自分を上位に置こうとするから、ますます声を荒げて、語調を強めて、喧嘩が絶えない。
負けるが勝ちなんていう精神的な余裕はない。
この流れで、これからは個人・個性の時代ということも、それぞれの分野で声高に言われている。
でも、基本的にはグループの組み直しが進んでいるだけに見える。
自分はこういう人間です、と宣言したり、大げさなブランディングもするけれど、
もともとそんなに個が強くはない人までもが、この変化を経験するから、
自分と価値観が同じ人を探して、集まって、安全を確保したり、
あるいは羊にとっての羊飼いのような強いリーダーシップを取る人物を求める流れができている。
このグル的な存在が増えている現象には、何も驚かない。
おそらく、所属する集団の作り方が、
価値観の同質性に焦点を置いているところがこれまでと違うだけで、
強い個人に弱い個人が引っ張られるような組織のあり方に変化はないからだ。
日本では、中田英寿さんの言葉に注目が集まるようになった頃に、
日本でもこういう流れが始まったんだなあ、と思ったけれど、今はこの流れの終末期だよね。
終わりから始まりに向かう時の大きな混沌。
この流れの前の社会にうまく適応できていたタイプの人たちが、
自分の価値を脅かすような強い個、自由に生きれる個を叩く流れも強くなっている。
まあ、よくわからないけれども。
私自身は、この流れの圏外に出て静観するのがいいなあ、と思っている。
古き良き慣習に従おうが、地面から浮いてしまっていようが、
何があっても変わらない良心のようなものがあって、明るくて、おだやかであることが、
健やかな人間の条件だと思うからだ。
時代が厳しいときには、接続を切れるというのは大事な技術だと思う。
燃え尽きないように、浮いていこう。





















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